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by sea_of_sound_2008
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カテゴリ:書籍( 2 )

 以前のエントリで書いたように、民主党は独自の「国連中心主義」を掲げている(明文改憲も視野に入れているだろうが)。それを示すものとして「横路・小沢合意」、「政権政策の基本方針」、「民主党政策集INDEX2009」を挙げたが、他に鳩山代表の改憲試案がある。鳩山試案では、「日本国は、国際連合その他……が行う平和の維持と創造のための活動に積極的に協力する」とされている。

 この民主党流の「国連中心主義」の源泉になったと思われるのは、やはり小沢一郎の『日本改造計画』である。この著書以来、小沢が一貫して独自の「国連中心主義」を唱えているのは――国連の下で自衛隊を派兵するのならば、違憲ではないという独流の憲法解釈とともに――よく知られている。15年以上前のベストセラーであるが、ここではその小沢式「国連中心主義」の可能性を検討したい。

 『日本改造計画』の「国連中心主義」の論理は次のようなものだ。国連に自衛隊を提供することは、「国権の発動」ではないから、憲法に違反しない。それどころかむしろ「国際社会において、名誉ある地位を占めたい」という憲法の理念にかなう。15年以上前のものであるにもかかわらず、小沢が今もこの論理を全く変えていないこと(例えば「世界」論文のそれ)には驚かされる。

 私は現在の憲法でも、自衛隊を国連待機軍として国連に提供し、海外の現地で活動させることができると考えている。その活動はすべて国連の方針に基づき、国連の指揮で行われるのであり、国権の発動ではないからだ。

 いうまでもなく、日本国憲法の三大法則は国民主権、基本的人権、平和主義である。そして、世界の平和を守り、「われらの安全と生存」を保持するために、世界の各国、諸国民と協力し、その活動を通じて国際社会で「名誉ある地位を占めたい」というのが、憲法前文の掲げる理念である。

 また、憲法第九条は冒頭に「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」すると明記している。これは、国際社会の正義と秩序を維持し、平和を守るために、日本も各国と協力して積極的に役割を果たさなければならないということである。

 では、実際にどのようにして、国際社会の正義と秩序を維持していくのか。それは世界の国々が加盟し、かつ唯一の平和機構である国連を中心とする以外にない。したがって自衛隊を国連待機軍として国連に提供し、その平和活動に参加することは、憲法前文の理念、第九条の解釈上可能であるだけでなく、むしろ、それを実践することになる。

 この活動は、第九条が禁じている国権の発動、つまり日本独自の判断による海外での武力行使とは形式上も実態上も明らかに異なる。二つは厳密に区別して考えなければならない。……

 もう一つの案として、憲法はそのままにして、平和安全保障基本法といった法律をつくることも考えられる。基本法には、すべての主権国家に固有の権利として、日本が個別的自衛権を持ち、そのための最小限度の軍事力として自衛隊を持つこと、また国連の一員として平和維持活動には積極的に協力し、そのために国連待機軍を持つことを明記する。

小沢一郎『日本改造計画』講談社、1993年、122-125頁

 この小沢の憲法解釈が、イラク派兵を決定する時の小泉と同様の、憲法のつまみ食いであることは論を俟たない。寺島実郎が共同通信の「報道と読者」委員会で、「小泉首相に『憲法前文』の引用を入れ知恵したのは誰か」と言っているが、それが誰であれ小沢のこの著書が念頭にあったのではないだろうか。ひょっとして小泉自身が『日本改造計画』を読んだのかもしれない。小沢は憲法剽窃の第一人者である。

 日本国民は「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」して、「憲法を確定」したのであって、平和のために戦争するという行為は憲法の理念に反する。「国際社会の正義と秩序を維持し、平和を守るために、日本も各国と協力して積極的に役割を果たさなければならない」というのはその通りだが、憲法は非軍事的な手段でそうすることを――特に政治家に対して――求めているのである。小沢はこのことを全く理解していない。

 法学者の奥平康弘は、『日本改造計画』が発行された翌年の著書で、この小沢式「国連中心主義」に次のように反論している。その要点は、まず、国連に自衛隊を提供すること自体が「国権の発動」に他ならず、憲法九条一項に違反する。次に、国連に「戦力」を差し出すことは、「戦力の不保持」を定めた憲法九条二項に違反する、というものだ。

 第一は、「国権の発動」という第九条第一項の読み方の問題です。日本国が、自衛隊を国連もしくはその他のどこかへ「どうぞお好きなようにお使い下さい」と差し出すとしたら、そうした差し出しは、日本の意思にもとづき、日本国の名、日本国の権威(授権)によっておこなわれる国家行為であるのは疑う余地がありません。すなわち、自衛隊を他組織に差し出すという行為それ自体は、どうしても「国権の発動」という性格を帯びざるをえないのです。そして日本国は、戦争・武力行使はしないと宣言しているのですから、戦争や武力行使が当然予想されるような自衛隊差し出し行為は、憲法上禁止される「国権の発動」であるというべきなのです。……

 さて、小沢流合憲論の第二の欠陥に移りましょう。かりに百歩ゆずって、国連軍に編入された自衛隊部隊の戦闘行為は「国権の発動」でないから憲法第九条第一項との関係では合憲だとしても、「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」とする第九条第二項との関係がのこっています。

 小沢さんたちは、ここで国連に差し出す自衛隊部隊はけっして「戦力」ではなくて、たんなる「実力」だと、例の実のないことばの遊びを仕掛けてくるかもしれません。……しかるに小沢さんが差し出そうと規定する自衛隊部隊は、国連待機軍なり緊急展開部隊なりが効果的におこなおうとする純粋軍事的な性格の活動に参加するものなのであって、れっきとした軍隊、まぎれもない「戦力」そのものです。……

 小沢さんが国連に差し出そうとする自衛隊は、それが国連のための「戦力」になるから差し出す意味があるわけですが、その「戦力」たるやどこの国の「戦力」かというと、これはまちがいなく日本国が保有するものなのです。しかし、憲法第九条第二項は、日本国が「戦力」を保持することを禁じています。つまり、そもそも国連へ差し出すべき「戦力」なるものを日本国は持てないのです。ないものは、本当は、誰にも差し上げるわけにはゆかないのではないでしょうか。

奥平康弘『いかそう日本国憲法』岩波ジュニア新書、1994年、111-114頁

 ところで、改めて『日本改造計画』を読んで気付かされるのは、実はその「国連中心主義」より、露骨なアメリカ中心主義である。これは奥平も指摘しているのだが、小沢は'90年代初頭の国際情勢をアメリカを軸にしてこう分析している。

 国防費削減という難題を抱えたアメリカは、これまでの「世界の警察官」としての役割を減らし、冷戦後の国際社会の実情を踏まえて「国連重視の平和戦略」ともいうべき歴史的な転換を図るのではないかと私は思う。具体的には、国連に対して軍事活動支援を行うため大規模な司令部を新設し、旅団規模の常設待機軍を国連に提供するといった政策を打ち出す可能性がある。……

 このように日本の周辺国が日本の単独行動を警戒し、最も関係を重視すべきアメリカが世界の平和維持に積極的であることを考慮すれば、日本がとるべき平和貢献の道は自ずから明らかになる。

 アメリカとの共同歩調こそ、日本が世界平和に貢献するための最も合理的かつ効率的な方策なのである。

小沢、前掲、116頁

 冷戦時代の国連は、米ソによる覇権争いの場だった。このため、双方の拒否権によって何ひとつ有効な平和維持政策をとれなかった。東西両陣営の上に浮いた存在だったといえる。ところが、ポスト冷戦の時代に入るや状況が一変した。ソ連が消滅してイデオロギー闘争が終わると、長い冬眠から覚めたかのように、国連の活動がにわかに活発化してきたのである。

 米ソの対立にともなう拒否権の乱発が姿を消したからだ。ソ連継承国家であるロシアはいまだに国内が混乱し、中国は共産主義体制を維持しているものの、基本的には西側諸国との協調路線をとっている。かつてのように西側との間で重大な意見の対立が見られなくなった。その結果、国連は必要な安全保障政策を積極的に決定できる状況になっている。

小沢、前掲、128頁

 こうした記述を見ると、小沢にとってその「国連中心主義」とは、アメリカの小判鮫となって日本の「国益」を追求しようという大国主義の現れであって、決して「恒久の平和」(憲法前文)を求めたものではない。アメリカが国連重視に傾くと予想した一人の保守政治家が、その勝ち馬に乗るついでに、長年の懸案だった海外派兵を実現させれば一挙両得だと考えただけの話である。

 そして、この認識は、国連決議の下アメリカ主導の多国籍軍がイラクを包囲・攻撃した、湾岸危機から湾岸戦争における構図に当てはまるに過ぎない。アメリカが国連を重視するようになり、新世界秩序が生まれるという小沢の推測は、アメリカのイラク侵略で大はずれしたどころか、破綻したと言っていい。

 また、見過ごせないのは、これが「失われた十年」と呼ばれることになる不況の時代が浸透する以前の、経済大国としての自負に裏打ちされていることだ。経済大国になった次には軍事的にものを言える国へ、という意識が当時の支配層にあって、それを巧みに小沢は汲み取ったのだろう。

 となると当然一つの疑問がわく。'90年代初期という特定の条件の下で成立した状況分析に基づく処方箋が、果たして今も有効なのだろうか?

 ノーム・チョムスキーは「機能するようになった国連」についてこう述べている。

 一九九〇年八月にイラクがクウェートを侵略したとき、国連安全保障理事会はイラクを非難し、過酷な経済制裁を行った。なぜ国連の反応はこれほど早く厳しかったのだろうか。米国の政府=メディア同盟は、お決まりの模範解答を与えてくれた。

 まず、政府=メディアは、イラクのクウェート攻撃が特別ひどい犯罪であるから、特別厳しい対応が必要であると我々に教えてくれた。「アメリカはこれまでと同様に、侵略に反対し、法による統治を覆すために武力を用いるものに反対する」とブッシュ大統領――パナマの侵略者であり、(米国のニカラグア攻撃に関して)「不法な武力行使」を行ったと国際司法裁判所で非難された世界唯一の国家元首――は我々に語ってくれた。……

 第二に、彼らはまた、長々とした説明の中で、国連はついに、創立時に意図されたように機能するようになったと宣伝した。彼らの主張によると、冷戦終了前は、ソ連の妨害と第三世界の甲高い反西洋のレトリックとによって、国連は機能不全におちいっていたのである。

 残念なことに、このどちらの主張も、ほんのわずかの検討の前に崩れさってしまう。米国も他の諸国も、湾岸紛争において崇高なる原則などを掲げてはいない。サダム・フセインに対する対応が前例のないほどだったのは、そのクウェート侵略が残虐だったからではなくて、単に足を踏む相手をサダムが間違えたからである。

 サダムは、湾岸戦争前、彼がまだ米国の友人で恵国待遇の貿易相手だったころも、クウェート侵略後とまったく同様に野蛮なギャングであった。クウェート侵略は確かに残虐行為であるが、米国や米国の仲間たちが犯した多くの同様の罪とくらべて特にひどいものではないばかりか、その中の最悪のいくつかには遠く及ばない。たとえば、インドネシアによる東チモール侵略と強制併合においては、米国とその同盟諸国の決定的な支援によって、民族皆殺しに近い規模の犠牲者がでた。……

 当時の米国の国連大使(現ニューヨーク選出上院議員)ダニエル・モイニハンは、東チモールに関して彼が国連で果たした役割を次のように述べている。「米国は、事態が自分の望みどおり[に]なることを望み、それを実現するために働きかけた。米国国務省は、国連が採択するすべての対応が無力であることを望んだ。この仕事には私が指名され、私はこの仕事にかなりの成功をおさめた。」……

 第二の点、すなわち、国連がついに意図されたとおりに機能しているという点については、事実は明らかであるが、がっちりと表現の手段を握っている「政治的正しさ」の監視人によって完全に隠されている。長年にわたって、国連は大国によりその機能を阻まれていたが、阻んだのは主に米国であり、ソ連や第三世界ではない。一九七〇年以降、安全保障理事会での拒否権発動数では、米国が他をはるかに引き離して第一位である(英国が二位、フランスはかなり離れて三位、ついでソ連である)。……

 国連がイラクのクウェート侵略に対応しえたのは、このときに限って米国が国連の対応を妨害しなかったからである。国連のイラクに対する経済封鎖が前例のないほど厳しいものであったのは、米国の圧力と脅迫によるものである。この経済封鎖は、例外的に効果をあげる可能性があった。というのは、それが非常に厳しいものであったと同時に、米国や英国、フランスといった封鎖破りの常連がいつもと違って経済封鎖を実行したからである。

ノーム・チョムスキー『アメリカが本当に望んでいること』現代企画室、1994年、89-93頁

 このチョムスキーのアメリカ批判は、'90年代以降の保守政治家お決まりの台詞である「湾岸戦争で日本は国際社会から非難された」と言う際の「国際社会」が、いかに大国のエゴに満ちたものであるかを、そして「国際社会」とは他ならぬアメリカであることを教えてくれる。チョムスキーの言うインドネシアの東ティモール侵略に荷担した「米国とその同盟諸国」とは、日本もその一つに数えられる。このことを忘れてはならない。

チョム:いささか個人的な話しになりますが、私が東ティモール問題について初めて国連で証言したのは25年前、1978年のことでした。証言は裏で妨害されましたが、妨害しようとしていたのは日本の大使館だということがあとでわかりました。

辺:えっ、そんなことがあったのですか。

チョム:インドネシアの友人たちが行った大量虐殺が告発されるのを防ぎたかったのです。だから日本の行いも、決してほめられたものではない。アメリカだけではないのです。

 とはいえインドネシアの東ティモ-ル政策の主な支援者はイギリスとアメリカだった。最後まで支援しつづけたのです。一度たりともやめなかった。最後には、ありとあらゆる圧制が行われていたことなど気付かなかったふりです。世論の圧力に負けて、クリントン政権は最終的にはインドネシア軍との公的な関係を断たざるをえなくなった。けれども政府は関係の再構築を欲していた。そこでいわゆる対テロ戦争を利用して、血に飢えたインドネシア軍の将軍たちと再び手を結ぼうとしているのです。彼らは主に日本とアメリカによって、虐殺の責任に関して西側の操作の手が及ばないよう、守られています。

引用元:http://www.freeml.com/chance-forum/3803

 小沢式「国連中心主義」とは、アメリカと国連が「協調」した湾岸戦争をモデルに、経済大国となった日本が、国連でアメリカの小判鮫として振る舞うことによって(常任理事国入りを視野に入れつつ)、国益を得ようとする大国志向型・軍事志向型モデルである。その意味で、「国連中心主義」というよりは、アメリカ中心主義の変種である。このモデルが今の国際情勢に通用するのかどうかは不明である。

 それでもなお小沢式「国連中心主義」が押し進められるとして、それはどの様な結果になるだろうか。チョムスキーの論述に明らかなように、国連を動かしているのは、大国、特にアメリカの利害である。小沢式「国連中心主義」は、アメリカの反対を押し切ってイスラエルを非難できるだろうか。アメリカが侵略行為を犯した場合に非難できるだろうか。

 小沢式「国連中心主義」の本義からして、それらはありそうもないことに思われる。しかし、アメリカと決別できなければ、結局「国連中心主義」はアメリカ中心主義に包摂され、「国連中心主義」と言う名のアメリカ中心主義がまかり通るだろう。いや、その前に小沢式「国連中心主義」は、アメリカから拒否すらされるかもしれない。


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by sea_of_sound_2008 | 2009-08-28 09:45 | 書籍
c0187090_230185.jpg 2006年4月の「つくる会」分裂劇を中心に、改悪教育基本法、沖縄集団自決の軍強制の有無、大江健三郎氏への名誉毀損裁判、教科書検定制度への批判まで縦横に論じたドキュメンタリー風の読み物である。この一冊で国内の歴修正主義団体のここ数年の動向がある程度まで知られよう。

 著者自身も書いているように、「つくる会」の分裂劇はエゴとエゴの相克であり「醜い」。だが、そのあくどさの中にこんな笑える一挿話を発見したことは、私にとっては愉快な事実であった。
 ……南京事件の犠牲者・証言者の李秀英らを「ニセ者」と書き、李秀英が名誉毀損で提訴し、東京地裁、東京高裁、最高裁ですべて勝訴した、松村俊夫著『「南京虐殺」への大疑問』(展転社、九十八年)の場合、東京高裁に出された証拠によれば、実売部数は一八〇〇冊であった。

 しかし、本書を貫いているのは、あくまでも「歴史歪曲運動」への危機意識である。著者は、おそらく「つくる会」分裂とともにそうした動きが雲散霧消してゆくのではないかという希望的観測への警鐘を込めて次のように書く。

 ……繰り返しになるが、分裂・抗争で歴史を歪曲する右派の力が弱まるとは限らず、逆に競い合って影響力が広がることもある。事実、沖縄戦教科書検定問題では両者が競い合って集会を開催している。私たちは、引き続き「つくる会」・「再生機構」・「教科書改善の会」などの運動に対抗する活動を強める必要があろう。

 ……この「まとめ」[引用者注:改悪教育基本法に基づく学習指導要領改訂の「審議のまとめ」]がそのまま新学習指導要領になれば、教育や教科書は大変な状況になることが危惧される。教科書は学習指導要領にもとづいて編集し、検定基準の中心は学習指導要領である。もし、そうなれば社会科教科書はすべて現行の「つくる会」教科書のような内容になってしまいかねない。

 こうした危機意識にこそ、この本のもう一つの意義があるのである。それは「正念場の歴史教科書問題」という副題にも現れている。


■ 関連リンク
・俵のホームページ
http://www.linkclub.or.jp/~teppei-y/tawara%20HP/index.html
・子どもと教科書全国ネット21
http://www.ne.jp/asahi/kyokasho/net21/top_f.htm
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by sea_of_sound_2008 | 2008-12-18 23:02 | 書籍