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by sea_of_sound_2008
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ネット右翼の国家観――なぜネット右翼は安易に人を「在日」とみなすのか

 以前から不思議に思っていたのは、なぜネット右翼がああも簡単に自分の意見への反対者を「在日」とみなすのかということだ。私より洞察の深い人にとっては自明のこともしれないが、ごく最近になってその理由が一部分ながら理解できた気がする。

 この傾向は以前からあったが、民主党、社民党、国民新党が連立して政権に就いてから、それが更にひどくなった。小沢一郎がコリアンであるというデマがインターネットを飛び交っているし、つい最近も東京都のレイシスト知事石原慎太郎がインターネットを引き合いにして(いつものごとく卑怯にも)、差別発言した事実があった。


 これは集合論のようなものだ。ネット右翼はおそらく、「全ての人間はその存在のまるごとが国家に従属している」と考えている。国家という円の中に、それぞれの個人が点として含まれている図を想像してもらいたい。これは間違った国家像だ。なぜなら、あくまでも国家は諸個人が契約する限りにおいて立ち現れる概念だからである。
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 個人はその存在のまるごとが国家に従属しているのではなくして、必要な限りにおいて国家に関わる。社会的な生活を営むに必要な限りにおいて、国家というものが存在する。それが国家に対する正しい認識だ。今度は一部が重なる二つの円を想像しよう。片方が国家で、もう一方が個人だ。注目すべきは個人には当然ながら国家に重ならない部分が存在するということだ。
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 重なる部分のみにおいて個人は国家に関わり、重ならない部分においては個人は国家に干渉されることはなく、国家から自由である。法的には自由権の存在がそれを保証している。

 だから、ネット右翼の歪んだ国家観と異なり、「全ての人間はその存在のまるごとが国家に従属するのではなく、必要な限りにおいて国家に関わる」とか「個人が社会的な生活を営む必要において国家というものが存在する」いうのが正しい認識だ。これはアナーキスト以外には受け入れられる国家観だろう(ひょっとして彼らの方が正しいのかもしれないが)。この二つの国家観の違いを検討することで、なぜネット右翼が反対者を「在日」と考えるのかその「論理」が明らかになる。


 「全ての人間はその存在のまるごとが国家に従属している」と考えるネット右翼は、自分の意見に反対する者、自分の卑小な考えでは理解できない発想を持つ者に出会った時、「人には国家から自由であるのだからそういう考えもあるだろう」と考えるのではなくして、「この人物は日本に反対している。ということは他の国家に属しているのだ」と誤った推論をする。

 自分たちの愛国に反対する者に出会った時に、「それは主権者として国家から個人の自由を守る正当な活動だ」と考えずに、外国人であるとか売国であるとか考える。「全ての人間はその存在のまるごとが国家に従属している」という命題が彼らのドグマであるから、他人もまたそうであろうと考える。彼らなりに「論理的に」考えた結果としてそうなるのだ。自分がそういう存在であるから、他人もまたそういう存在であると推察する、これが彼らの思考の筋道だろう。


 愚か者は無知だから愚かなのではなく、自らの愚考に頼って考えるから愚か者なのだ。彼らは近代人ではない。啓蒙思想以前の存在だ。日本は経済的には成功したが、思想の面では近代化していない。そのくせ人々は、それが啓蒙思想が輸入された時代であることなどは忘れて、司馬遼太郎に倣いつつ、明治時代は素晴らしかったなどと言い、「前近代的な」中国を指弾する。


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by sea_of_sound_2008 | 2010-06-02 01:17 | インターネット